トンカットアリの老舗「百寿庵」

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●2005年10月の風月譚 
『NHKラジオ深夜便』


 10月になりますと皆様のお近くで「百舌(もず)」の泣き声を耳にすることが多くなると思います。
春先のソメイヨシノの桜前線と同様「百舌の高鳴き75日(75日以降初霜が降りる)」とあります
ように、秋から冬の到来を告げる自然の営みを今年もまた感じる頃となりました。
日々の過ぎゆく早さのなかに、ふと振り返ってみますと今年もカレンダー3枚となっていることに
気がつきます又今年も終わるのだな‐と感慨ひとしおであります。
何時の頃からか、私はNHKのラジオ深夜番組を文字通り枕言葉として眠りについております。
特にAM4:00からの「心の時代」は、8年前の大分県前知事平松守彦さんの「一身二生」の言葉
が私の起業の切っ掛けになったことを始めとして感銘を受けた話しは、数限り無くあります。
今年に入りましてラジオ深夜便を通して50年振りと35年振りに再会した御二人のことを書いて
みようと思います。

小檜山 博さん

50年以上も前になりますが,未だ戦後の荒廃から脱却できない頃、母方の実家は下宿屋を
始めました朝鮮で全財産を散逸し生きていく糧として父方の土地に家を建て、4人の下宿人
を置いて生計の手段としておりました。
新しく入居した一人が小檜山さんでした苫小牧工業高校出身で北海道新聞社に就職している
との事でした背が高くとてもハンサムな人で、てっきり工業高校出身との事でしたので、技術屋
さんで印刷機具の修理を担当する人ではないかと勝手に想像しておりましたあるとき,遊びに
いった際に「信ちゃん,これ読んでくれない?」とガリ版刷りの原稿を渡され、更に「どんな名前が
好い?」など質問を受けました先入観があったことと,小説を書く人が身近に居るなど考えも寄ら
ないことでしたので、「この人は普通の人で無いな‐」など何か難しい人ではないかという印象を
受けました。
しばらくして小檜山さんは、別の所に転居していきましたその理由は後で知ったのですが妹さん
が札幌の中学校に転入することとなり一緒に暮らすためでした。
偶然、妹さんは私と啓明中学で同学年でした。
その後東京に転勤となり念願であった大学に進学したことを聴きましたしばらくして、FM東海
(当時)のCMで新潮の新人小説家として「小檜山 博(ばく)」さんの名前を聞き念願の端緒を
掴んだのだなぁと記憶しておりましたが、その後すっかり忘れておりました。
今年の春先であったと思うのですが,「心の時代」を途中から聞いたのですが,戦後間も無い頃、
北海道で困窮の生活をしていたこと、20円のお金の都合がつかずに只一人授業の映画観賞に
参加出来ず裏山で空を観ていた事,空腹を満たすため親戚の家から無断で実家に帰り、母親
から叱られて雪の降る夜道を歩いて帰ったことなどを話している人を耳にしました戦後間も無
い頃の炭焼きを生業としていた生活は大変厳しかった事、そして最後に母親の介護の中で親子
の情愛・家族の有り様の話しを聞き、世の中には感心な人がいるなぁと聴き流し最後まで聴かず
寝てしまいました暫くして7月に視聴者の希望でしょうか再放送番組がありました最初から
聴いておりましたので講演者が「小檜山 博」さんであることを知り、懐かしさと50年前のあの日
のことが蘇ってまいりましただんだん聴いているうちに前回聞き流したあの番組の講演者は
小檜山さんであることが明らかになり、眠気も飛んでしまう程驚きました。
何故かといいますと,小檜山さんがそのような境遇の中で育った雰囲気は全くありませんでしたの
で,同一の人物とは考えにくかったわけです。
翌朝,早速連絡先を調べ、連絡を取ることが出来ました。
現在は連載7本を執筆中との事,年間70回の講演があるとの事で北海道を基盤とし成功し大活
躍している様子が手に取るように分かりました。
振り返ってみますと50余年前から小檜山さんは、決して弱音を吐く人ではなかったし,自分の
育った背景を全て受け止め今日まで全力で生きて来た人だな‐と感慨にふける事が出来ました。
決して恵まれなかった幼年時代に得た多くの体験が、優しさと労(いた)わりを作風の基盤とし、
更に北国の厳しい環境の中で自立する事の大切さを通して、多くの読者に感銘を与え魅了して
やまないのでしょう。
奇遇といえるのでしょうか,お嬢さんが私の年の離れた従妹と高校で一緒であったことを聞き、
何か不思議な縁を感じました。
来春に全集を発刊の予定との事,益々の御活躍をお祈りしたいものです。
尚,詳しくは「小檜山 博」で検索が出来ますので御参照願います。

佐々木 韶(しょう)君
9月の14日かと記憶しておりますがAM1:00から葛飾北斎の研究者として佐々木君が
ラジオに登場いたしました。
平成11年に
北斎没後150年記念出版
『画聖・90年アートウオーク』
を出版し、贈呈して頂きましたのであの佐々木君とすぐに分かりました。
当時は上野の方で和風旅館を営んでいると聞いておりましたが現在は長野県の小布施町に
住んでいるとの事でした。
35年前に私が赤井電機におりました時、国内営業強化の戦力として彼は入社してきました。
どちらかというと営業力を発揮するより、幅広い企画力に優れた人物と言う印象がありました。
同じ北海道の函館出身で北大卒との事で、親しみを持って接しておりました創業者であった
赤井三郎さんが56歳で亡くなった後は,会社も時代に取り残され業績不振で社員も離散して
しまいました。
佐々木君はその後持ち前のクリエイテブ(CREATIVE)な能力を発揮してデザイナーの道に進み、
数多くの賞を受け輝かしい成功を得ることができたようです。
他方,北斎に関しては興味旺盛であったのでしょうか北斎の住んでいた横須賀に住んで富士山
を眺めたり,彼の歩んだ小布施町までの60里を当時と同じ行程で走破したり,富士山をさまざま
の方向から眺め北斎との一体化をはかり、少しでも彼に近づく努力をしてきたようです小布施に
住む切っ掛けは北斎が当地を訪れ高井鴻山宅に投宿し、その縁者と知り合うことで彼もまた移り
住んだようであります。
これだけですと60歳になり悠悠自適な生活の延長でめでたしということであったのですが、昨年
6月に白内障の手術を受けたのですが、その手術は失敗に終わり翌日から失明と歩行困難という
思いもかけない境遇に遭遇することとなったようです。
目が命と言っても過言でない探求者の彼に、現在の境遇を忖度して連絡することを躊躇したの
ですが取り敢えず「ラジオを聴いたよ」と連絡をとりました。
目が見えなくなったことに一言言葉を添えたのですが彼は『かえって心穏やかになりました。
そして異なる人生を2つ歩むことになりましたそして聴覚が研ぎ澄まされてあの有名な富獄
三十六景「神奈川沖浪裏」の波の音を感じ、今までとは違う北斎の素晴らしさに気がついた』と
の事でした偶々10月25日から東京国立博物館で「北斎展」があるとの事で、ほんの少しでも
佐々木君の歩んできた道のりの一端でも知り得たらと思い、行ってみようと予定しております。
早く元気になり北斎に代表される日本の文化を新しい形で創り上げ、継承の確立に尽力する
よう期待して止みません。

以上NHK深夜番組を通し半世紀前の思い出と、今尚、新たな道を模索している友人に思いを
馳せる機会を得ました。
 
P/S 
 この1年間は政治に関して一切話したくない。
やはり懸念したとおり「半開」の文明レベルであることが明らかになりましたし,彼が退陣する
来年9月に公約どおり再度総選挙を実施してもらいたいものです。
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●2005年9月の風月譚 
智と徳


●2005年8月の風月譚 
終戦60年-怒りそして悲しみと苦しみの中で
戦争遺児として私の一言


●2005年7月の風月譚 
上期4題


●2005年6月の風月譚 
椿ちゃんは2歳

●2005年5月の風月譚 
25回目にあたって

●2005年4月の風月譚 
『4月は新たな出発の月
=私の高校時代=

●2005年3月の風月譚 
故郷 札幌 昭和30年頃まで

●2005年2月の風月譚 
雪池忌によせて

●2005年1月の風月譚 
酉年にあたって

2004年
12月 平成16年を振り返って
11月 書物は知識の源泉
10月 故 野中 孝一さんと「SPIN トレーニング」
9月 ハインリッヒの法則(1:29:300)とパン屋の経営
8月 私のPROJECT-X 甲子園への道(PART2)
7月 私のPROJECT-X 甲子園への道(PART1)
6月 6月10日は時の記念日
5月 FENWAY PARKの思い出
4月 お釈迦様と四聖諦八正道
3月 『起業5年目にあたって‐‐新たに知った事・新たな財
2月
『OFFSET BALANCE(得たものと失ったもの) 
1月 『暴君の初夢』 

2003年
12月 『6歳のLADYに学んだこと 』
11月 『文化そして万歳三唱 』
10月 GOLD FINGER 荒木 敏明 君 』
9月 9月11日とイスラムの人々 』
8月 戦後と58年後の今日 』
7月 『三色旗ー自由,平等,博愛 』
6月 『JUNE BRIDE (6月の花嫁)
5月 『とつき十日の下宿屋の宿賃』


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